昭和48年9月1日 朝の御理解



一つ「欲得にふけりて身を苦しめることなかれ」

 欲得にふけりて、え~、身を苦しめておる人がどのくらい沢山あるか分かりません、元の先がましだったといような、ね、ところが私共は、えぇ、欲得は、ではなくてね、必要なものだけは必要だということです、ね、例えば「食物は皆人の生命のために」と言っておられますように、私は、そのお金でも物でも、え~、私共の生きていくために、言うならば生命のためにあるのです、もっと具体的に言うと、人間の、おぉ、幸せのためにあるのです、どんなに美味しい食べ物でもね、それは生命のためにあるように、物でも金でも、人間の、言うなら幸福のためということが、焦点でなからなければならん、幸福になりたい、だからとにかく金を貯めたい、金を儲かりたい、儲かった、ところが、その儲かった金のために、生命を落とさなければならないという人がどのくらいあるか分かりません、そのために苦しんでおる人がどのくらいあるか知れません、ね、はたしてだから、その、物を、持つことも貯めることも、えぇ、いけないということではない、うんなら、え~、食物は人の生命のためにじゃから、毎日毎日、ね、その日その日に食べる物がありゃええという意味じゃないです、そりゃ、あぁ、米の倉庫には、米がいっぱい積んである、冷蔵庫を開けりゃあらゆる食べ物がいっぱい入っておるというようにです、いっぺんに食べるということじゃないですから、それが貯えてあると言うことが悪いということじゃないのです、出けるだけ貯えるほどしのゆとりを頂かなきゃならん、そして豊かな心で生活さしてもらわなければならん、ね、豊かな有り難いおかげを頂くことのために、食物もありゃ物もありゃ金もあるのですから、それが豊かであれば豊かであるほど、それは有り難いのです、けれどもです、そこにその、豊かに持っておれば持っておるほど、それを生命を粗末にするたまに、例えば酒なんかは沢山頂いて、それでもう、その、ぉ何て言うですかね、(?)の言葉で言うと、しちにくりんといったような言葉がありますよね、出来るからと言うて、もうそれこそ、おぉ、酒の池、肉の林といったようなことにです、ね、没頭してしまうようなことでは、生命を縮めたり、いわゆるそのために、人にどのくらいの迷惑かけるか分からないようなことのために、あってはいけんのです、ね。
 先日から、あの、(?)に、沢山色々な、あぁ物を頂いておりますのが、もう置き場がなくなって、あそこに、いぃ置き場を作ってもらうことなったところが、皆さんに色々、そうして、まあ見事に、もうそれこそじゅうたん轢きつめて、そして空棚が出けて、もう見事な籠がいっぱい入って、(?)でちょっとした少美術館の感じです、そこに先日からあのペンキ塗りさんが、あのまいりましてね、もうそこで仕事してやられ、それで夕方私行ったらもう丁度済んでおるところでしたが、「ほりゃ先生これはもう見事な物ばかりがこう集めてありますが、こげなん風に私んごたる職人やらが、来てからここで仕事、こげなこって良かってすか」っち、悪気どんがあるならいっちょちょいと持って行かるんならあぁた、これは大変な金額なもんでしょうけれども、こげなおこって良かってすかと言われるんです、そうでしょうね、あの、えぇ、(?)なんかはもうあの、何ですか、ナポレオンとか、あぁドニクロとかといったようなね、世界最高の銘酒がずらりと並べてある、私は飲むということよりも、私は見て楽しみ、楽しむとこう、今まではもうみんな、その、直し込んでしまったような、出して見たらあることあること、沢山あるわけです、ね、それこそ一本が一万円もするような、五万円もするような、あぁウィスキ、あぁ~、ブランデーやら、またウィスキーやらが、いっぱい、好きな人ならちょいと一本持って行ったちゃ誰も分かりもなんもせんような、それが一同に集めてあるのです、そらぁあそこへ條舞やかけようとも思わないし、ね、例えばそれはどういうことかと言うと、それは、ね、例えば豊かな心におれれることの、ためにそれはあるのです、世界さいっ、例えば最高でも、これはまあ一つも、他には無いといったようなものがですよ、例えば、その見たり、楽しむということは、心豊かにすることのためにある、これが取られたらどうなるじゃろかと、というような肝の念というようなものがさらさら無い、ね、だから例えばそういうなら宝物的なものを持っておって、そっ、それが壊れないように、勿論壊れないようにっちうことは大事なことですけれども、取られてはならんといったように、漆器になり心配になるようなものであっては、その物が物として生きないわけですわね。
 先日も、あの秋永先生の奥さんが、えぇ、秋永先生が迎えに来ると言うので待っておられた、その間私お茶でも頂きながら話しよったところへ、聡子が、あのおばさんが填めとる指輪に目を付けてるんです、してそれをくれっち言うてこうやって取るわけです、それだけちゃ脱いでから、あの、やよりました、必衰だそうですが、「親先生これ時価五十万円いたします」と、「親先生私は思うです、私もこんな沢山すぎれたか集めておるし、えぇおりますけれども、親先生が何時も言われるように、あの信心の情操ということに繋がると思います」とこう言うのです、ね、うんそれもそうだなと私は思いました、何時でしたか秋永先生が言ってました、「内のおばさんが死んだら、これはもう肩身分けが大変なこっちゃろ」とこう言うてました、というほどしに沢山の、素晴らしい着物を、もう沢山持っておるということです、宝石なんかでももうそれこそ宝石屋して良いごと沢山持っておる、ね、それこそ時価五十万もする必衰の指輪を、もう常、もう日頃っ、常に指しておる、だからそれを見るたんべんに心が豊かになる、和んでくる、心が嬉しゅうなってくる、なるほど信心の情操に繋がるなと、言いし、また思うたけれども、けれども、ね、そういう例えばなら信心の情操に繋がるものならば、腹を立てるようなことやら、人を責めるようなことがあっ、あって、それを填めて、に、悦にいっておるとするならば、それはおかしい、ね、それはなら自分の身の虚位のために、宝石を集めておるということに、着物を作っておるということに、なるのじゃないでしょうかね、なるほど良い着物を着りゃ気分が良いです、またとないというような宝石を身に付けるなら気分な良かろうと思います、なら、だから本当にそれは信心の情操に繋がる、私が今申しますように、どういう素晴らしいものをみっ、もっ、頂いておりましてもです私は、ね、なるほどあぁ~、あの、私の場合はなるほど信心の情操に繋がるように思うです、天地の親神様がありとあらゆる物を、ならこの世に恵んでおって下さるということは、それこそ人間が真実、喜んでくれるために、幸せになってくれるために、下さってあるものですから、その最高のものが、身に付けられるほどしの、またはそれが、飲んだり食べたりも出来るほどしのおかげを頂くということはです有り難い、だから勿体無いことじゃなぁこんな物を身に付けさして頂いてと、言うならばもうそれは信心の情操に繋がっておるわけです、けれどもそういう素晴らしい物を身に付けながらです、なら腹を立てたり、皆を責めたりするものがもしあるとするなら、あんたのは信心の情操ではなくて、あんたは虚位心のために、それは身に付けておるんだ、なるほどそれは死んだなら問題になるようなことに、返って問題を作るようなことになるぞということにもなるのです、だから、なら秋永先生の奥さんの場合ですね、それが本当に情操ということだけに繋がっておるなら、見事ですね、けれどもそういう物を持っておって、腹を立てたり人を責めたりするようなものがあるなら、こりゃあんたは虚栄のために持っておることになるばいということになるのじゃないでしょうか、皆さんよ~そこんところ考えて下さい、お金でも物でもやっぱり同じことです、人が幸せになることのために、五十万もする必衰の、みっ、言うなら指輪もあるのであり、どういう三界の珍味も、人間に味合わして、はぁ美味しい有り難い勿体無いということのためにあるのだ、生命を、のために食物はあるのだ、それを、なら生命を涯するために、大酒大食したらどういうことになりますか、そこでです、ね、「欲得にふけりて」とこういう、私共が、ね、ふっ、欲特にふけてはならないということ、ただ儲かりさえすりゃええ、儲かりさえすりゃええということじゃなくて、そこに焦点をはっきりとしての、それが(?)でなからなければならない、儲かるということでなからなければならない。
 私共がその日に食べるのが、がつがつといったようなことであってはならない、その日に使わして頂くお金に、さああっちこっち借りまわらなんようなことであっては出けない、段々おかげを頂いて、それこそ銀行まで行きゃ何時でも、ね、必要なだけのお金が、銀行に貯えてあるほどしのおかげを頂かなければならんけれども、ね、それが欲得のために、それが貯められてあったり、欲得にふけってそれが出けておったとするなら必ずそれは問題になるです。
 昨日、おぉ、月末の御礼信話会が、男の方が、十二名、女の方が十八名でしたから丁度三十名、ここでこう丸く輪をかいて、え~、最後まで残られた方が三十名でした、もう一人一人、その体験を発表される、体験発表というよりも、もうそれこそ、神様にお礼の言葉を申し上げるようなつもりで皆さんが一言一言発言をされました、最後に久富繁雄さんが、発表しておられました、先日からメガネが、えぇ壊れて、したら、あの息子が、あ~、買うて、それで「こげんとがええばいあげんとがええばい」と人から、あぁ注意を受けておったから、あぁ息子にそげん言いましたら、「あんたが言いよったごたるとが、今ある」っち、けれどもそのもうレンズが使われんから、あのこちらにそれと同じレンズがあるけん、それで良かろうかっち、そりゃもう良かどころじゃないが、あ~、金が一万円もする、そげん高いとはと思ったけれども、息子がそれを買うて来てくれたが、もうそれを使うたんべんに嬉しゅうして楽しゅうしてという話をされました、息子の一生懸命の思い、しかも一万円もするメガネを、こりゃ勿体無いと思うたんべんに、だからそれが一万円のが、五万円のメガネが填められるようになったらもっと嬉しい楽しいことでしょうね、私も時価二十何万もするというようなこのメガネをね、かけるたんべんに扱うたんべんに、勿体無いことじゃなぁ~と思うです、ね、だから私がとか二十万もするメガネばのっち言うて、みっ、こう見せぶらかすためにじゃない、もう自分の心を本当にいよいよ豊かにすることのためには、一万円のメガネよりも五万円、五万円のために、よりも二十万もするようなメガネでも、填められるようなおかげを頂いた方が有り難いでしょう、「ほりゃぁ合楽の先生はもう贅沢な、もう二十何万もするごたるメガネば填めちゃるげな」と言う人があるかも知れません、けれども私がなら、そげんとやなからんならんと言うて買うたわけでもなんでもないのだけれども、こうやっておかげを受けておるということだ、これはいよいよ神様が私の心を、豊かに、有り難い勿体無いを募らせて下さることのためにあるんだと私は思うんです、ね。
 何時も、ん~、合楽の田中さんがおかげを頂いて、あそこの借家に住んでおる、床屋さんを月に3回、奉仕にやらして、え~、やって下さる、ところが今度はどうしたものか、十日に一遍のつが、えぇ、1回ぬけてしまってる、それでもう、こう髪も、まあ伸びとりましたが、丁度1回ぬけた、二十日ぶりにだから、来て、昨日着てくれたわけです、そして私が思うたのに、もう本当にどうしてこの前は来てきれじゃったのといったような思いがもう自分にさらさらないことにもう、本当に有り難いと思いました、ね、どういう訳この頃あんた来てくらじゃったのっち、これはもうすでにせっ、人を責めることになる、それほどしに私の心は有り難い豊かな心を頂いておるということを思うんです、ね、ですからそういうことのためにです、なら最高のおかげを受けておる、ね、沢山な言うなら、あぁ、まあ、美術品、えぇ、少美術館と思われるようなものが沢山集まっておるということも、私に下さる全ての物がです、ね、何十万もするような着物も頂いておる、そういう着物もです、ね、例えば物も金もです、一切がいよいよ私を有り難い上にも有り難くして下さることのために、神様が集めて下さるのです、だからこういう素晴らしい物を、がきた、集まったから、もう取られんごとかっ、かけでなえとかにゃならん、この金はもう決してつかっ、使うちゃでけんぞ、銀行にちゃんと入れとけ、もうそれこそお役に立つことがあるなら何時でも、ね、もう何時でもそのまま、例えばお供えが出けるような心の状態に、あって、初めて私は身を苦しめることのないおかげが受けられると思うです。
 貯めた、そしてそれはもう、ね、もうとにかく、自分の貯めたために後々に問題が起こるようなです、貯め方をしっ、してはおかげにならん、ね、そこでです、例えばね、お役に立ちたい立ちたいの一念が、商売繁盛の願いであり、ね、私の名義で、なるほど貯金はしてありますけれども、本当言うたら神様名義の貯金といったような、貯金であってこそ初めて身を苦しめることのない、いよいよ徳に徳が付く、喜びに喜びが付く、いよいよそれが大きく、それが大きくなって行く、ね、例えばお金で言うなら、それがいよいよ沢山になって行けば行くほどに、有り難い勿体無い恐れ多いという心が、頂けるんだと思うのです、ね、そういうものを持ちながら、ね、さあこれば誰に譲ろうかと言うて心配する、誰から取られたりせんじゃろかと(?)言うて、夜もおちおち眠れない、その言うならば財産なら財産のために身を苦しめるような、ことがあってはならないことをここでは教えておられます、だから皆さんも、ね、最高の物を身に付けて、ね、沢山お、それこそお金も貯められる、分限者の徳を受けなければなりません、けれどもそれはどこまでも分限者の徳でなからにゃいけません、徳によって集まる物でなきゃいけません、だから勿体無いのです、有り難いのです、とても人を責めたり、ね、腹立てたりするようなことが、いよいよあってはならないことのために、自分の周辺を豊かにして下さるのですから、ね、ところが、いっ、周囲が豊かになり、周辺が、あぁ、ね、物に、恵まれすぎますとです、めぐっ、恵まれすぎたことによってです、生命を落としたり、苦労がますような、貯め方は、金輪際してはならない、根本的な、ね、根本の願いから、変えなければいけないということです、お役に立ちたいの一念、ね、一切があなたの御物であるとしての頂き方、この観念が出来て、ね、物であり、金であり、例えば食物であるということになるのです、ね、そこんところの根本的なものが出けておるでしょうか、儲かったなら、ちょこっとばっかりお供えをする、そげなこっちゃつまらんです、お供えすることもなんもいらんです、ね、この全てがあなたの御物であるんだぞということを、自分が思い、家族が思わせて頂けれるところまで、徹底した頂き方からでなからなければおかげは頂けません、ね、いわゆる「すぎたるは、およばざるごとし、がごとし」といったような結果になります、あんまりに沢山な着物を持っておるから、返って難儀をする、あんまり沢山な宝石を持っておるから、返って困る、ね、沢山のお金が貯まったために、それで返って生命を落とすといったような、事になったんでは、それこそ、ね、欲得にふけった、それは、( ? )、ただ欲得にふけっ、ふけるだけの、言うならば金光教はそういう言葉は使われませんけれども、言うなら、天罰と言わなければしかたがないでしょう、ね、だからあんまり貯めよると天罰を受ける、ね、だからならどれほどたっ、なら貯めちゃいけんかと言うとそうじゃない、どれだけ貯めても良い、どれだけ素晴らしい贅沢の物を身に付けても良い、けれどもそれが、その秋永先生の奥さんじゃないけれども、信心の情操に繋がるほどしの物であって初めて、貯める意義があるわけですよね、必ずしもその日暮らしでなからにゃならんということは決してありません、貯めた上にも貯めてあるとほどしのおかげ、けれどもそれはどこまでも信心の情操に繋がるもの、でなからなければならんということです。
                                   どうぞ。

入力者:誠輝